星語り 

こんばんは
星月夜です。

今日は、夜8時頃になってからキトリのお散歩に出ました。
そしたらあんまり星がきれいなので、ああ、家にいる娘にも見せたいなあと思いました。
北極星ってあんなにも小さいんだよねって、夜空を指さす私を想像しながら、長い間星を見ていました。

今日は、星にちなんで、
宮沢賢治『銀河鉄道の夜』から、星になったさそりのお話などしてみることにいたします。
もしよろしければ、おつきあい下さいませ。

さそりは、ある日、いたちに食べられそうになりました。
一生懸命逃げているうちに、とうとう井戸に落ちてしまいます。
その時さそりは、溺れながら、こう言って祈ったのだそうです。

「 あゝ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、
そしてその私がこんどいたちにとられやうとしたときはあんなに一生けん命にげた。
それでもたうたうこんなになってしまった。
あゝなんにもあてにならない。
どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったらう。
そしたらいたちも一日生きのびたらうに。
どうか神さま、私の心をごらん下さい。
こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかひ下さい。」                                          
(筑摩書房 【新】校本宮沢賢治全集第十巻p.22 『銀河鉄道の夜』初期形一 より 本文は改行なし)


かわいそうなさそり。
でも、その尊い「犠牲」の気持ちは本当に立派です。
子どもたちは案外、こんな道徳的な?お話が好きです。

では、大人の私は?
残念ながら、子どもたちほど立派ではありません。
だから、せめてそっと、さそりの切ない祈りに身を寄せてみます。


「どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったらう。」
そう言って歎くさそり。

おや?
さそりは、自分の一生を立派なものとして、初めからきれいにやり直したいのではないようです。
たったさっき、井戸に落ちた、その直前からだけやり直したいというのです。
そしてそのことを一生懸命祈っているのです。

そう。
さそりは、最後の最後になって、今まで気がつかなかった大切なことに気がつきました。
それは、さそりにとっては、きっと世界が変わって見えてくるほどの大きな気づきです。

ほんの少しの間でいい、この新しく見えてきた世界を生きたい。

私は、さそりが、そう願ったのではないかと思うのです。
それが、「わたしのからだをだまっていたちに呉れてやる」ことであったのだと思います。

かわいそうなさそり。
そんなささやかな願いさえ、今や叶わぬ願いです。
さそりは、そのまま溺れてゆくしかありませんでした。

私たちの生活は、毎日のあれやこれやにまみれて過ぎてゆきます。
でも、もし、さそりのように、ある日何かとても大切なことに「気づい」てしまったら。
そうしたらきっと、私たちは、その「気づき」を生きずにはいられないと思います。
ほんのわずかの間でもいいから、生まれ変わって新しく生きたいと、切に願うのだと思います。


宮沢賢治の童話や詩に描かれた、たくさんの「生まれ変わり」。
こうしてみると、それらは、いわゆる、死んだ後の生まれ変わり、ではないのだという気がいたします。

自分をとりまく世界がすっかり変わって見えるほどの「気づき」に出会うこと。
そして、その「気づき」を生きること。
たとえそれが、人生の最後の一瞬にあったとしても、それはきっと大きな喜びだろうと、うれしく想像するのです。


最後までおつきあい下さって、ありがとうございました。

さて、『銀河鉄道の夜』の中の、この小さなお話の終わりです。


「いつか蠍はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしてゐるのを見たって。」



おやすみなさい。






[2010/09/04 01:16] 日記 | トラックバック(-) | CM(7)

星降る夜に

ここ様、こんにちは。
「蠍」の挿話への解釈、「気づき」なのですね。
賢治の青年期、父親との対立、宗教的理論の試みなどを通しての自己のあり方の発見は、「気づき」でしょうし、花巻での農民への働きかけは「気づき」をどう生きるかとう彼の答えなのでしょうね。
(宗教…は思索の手がかりであって、宗教としては昇華していないようですが)

「蠍」は、同様のテーマである「よたかの星」とは違い、「銀河鉄道の夜」の中の挿話としてあることに、意味があって、女の子やカンパネッラが語る話をジョバンニがやがて持ち帰る。それはまさに「気づき」なのでしょう。

そして、気づいたらどう生きるか。ここに賢治の眼目があって、ヒューマニズムがあるのでしょうね。

そして、ここ様の文を読みながら私は、
ジョバンニの独り言のように、
(「あぁ、カンパネッラや女の子や、鳥捕りのおじさんの分まで、いっぱい考えたいな」)と
思うのです。


[2010/09/05 06:27] 杣人 [ 編集 ]

さそりさん偉いわ。

私なんか一生気がつかないまま終わってしまいそう。
[2010/09/05 15:46] 塾長 [ 編集 ]

ここさんこんばんは
今夜もまた素敵なお話をありがとうございました。
ここさんのお話し、お考えをうかがうと、心が洗われます。

たとえ最後の一瞬にあったとしてもおおきなよろこびだろうと・・・
普段はキリスト教の教理について考える事ってないのですが、
ふと、緊急洗礼、病床洗礼を思いました。
牧師さんのお説教より、心打たれました(*^_^*)
[2010/09/05 22:59] Hulaさん [ 編集 ]

杣人さん、こんにちは。

お返事遅くなってすみません。何だか珍しいことに熱が出て、2日間寝付いておりました。
杣人さんは宮沢賢治についても、とてもお詳しいご様子、驚きました。私はこの頃になって、いいなあと思って読み始めたところです。
杣人さんのご指摘で気がついたことは、これがさそり自身の語りでなく、女の子やそしてジョバンニの語りを経て、私たちにとどけられたものだということです。そのことの意味をもう少し続けて考えてみたいなと思いました。
私も杣人さんといっしょに、いっぱい考えたいです。
[2010/09/06 10:33] ここ [ 編集 ]

塾長さん、こんにちは。
いかがお過ごしですか。こちらも午前中は涼しい風が吹いております。
私は、「気づき」はきっと、ある日、突然はっとする、という具合に、受身的に起こるのだろうと考えています。きっかけはさそりのように死を目前にしてとか、人との出会いであるとか、いろいろだろうと思います。
そして、自分自身、気づいたと自覚できるかさえおぼつかないと思います。それがよい方向への「気づき」なのかどうかも、自分には分からないものではないかと思いました。
だから実際は、杣人さんのおっしゃるように、人に語られてゆく中に、ただ小さな変化が見て取れるというようなものでしかないのかもしれません。
[2010/09/06 10:50] ここ [ 編集 ]

Hulaさん、こんにちは。
私が、このさそりの話を思いだしたのは、死刑囚のところへ行かれる牧師さんの文章を読んだことからです。
Hulaさんの思っておられるのとつながっていますね。
全ての人に「気づき」とその後の行き直しという意味での「生まれ変わり」の可能性があるということは、希望だと思います。
[2010/09/06 11:11] ここ [ 編集 ]

ここさん、こんばんは
まあ、そうだったのですか!

ここさんの素敵なお話にキリスト教とか、牧師さんとか、失礼かなと思いましたが
”Hulaさんの思っている事とつながっていますね”と言って頂き
ほっとしました(笑顔)

[2010/09/08 22:59] Hulaさん [ 編集 ]

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