通り過ぎる 

こんばんは
一昨日、昨日とあんなに暖かかったのに、
夕方のお散歩の時には、雪がちらほら。

先日読んだ本の中に、ちょっと感動する部分がありました。
でも、今日読み直してみると、その時ほどの感動はありませんでした。

その本に出会うこと、
そして、その本の言葉に心が動かされること。

幾重にも重なる不思議の果てに出会ったものに、ふと心が動かされて、
またそれも、何ごともなかったかのように、通り過ぎていくんですね。

その繰り返し。

移ろうものの記録として。


 「 本居宣長はその自筆の覚書によれば、宝暦八年、二十九歳の夏に「源氏物語」全講の講義をはじめ、三十七歳の明和三年六月六日の夜に終ってゐる。満八年で、聴講者は九人であった。長い講義である。今ならばこの間に中学二年生が大学を卒業してしまってゐる。その講義が一先づ終へてほっとしたと思ふと、その翌月の七月廿六日には、また第二回の全講をはじめた。今度も講義は夜で、聴講者が一人ふへて十人である。その第二回の講義の終ったのは、それから八年五ヶ月を経た安永三年十月十日である。宣長はこの時四十五歳になってゐる。二十九歳ではじめた「源氏物語」の全講が、第二回を終った時には、もう四十五歳になってゐるのである。四十五歳になってゐるから、これでもうやめたのかと思ふと、また第三回をはじめた。しかし第二回は十月十日に終ったので、それから年末迄休んでゐる。けれども第二回をはじめた時とは違って、すぐに翌月から次を始める程に、英気に満ちてはゐなかった。年が明けて、翌安永四年の正月になると、その廿六日夜からいよいよ第三回をはじめた。聴講者は前回と同じに十人である。この第三回の終ったのは天明八年の五月十日である。第一回の八年、第二回の八年五ヶ月よりは、ずっと年数がのびて、十三年かかってゐる。四十六歳から五十九歳迄である。やうやく年をとって、気もゆるやかになり、その上講義の材料も豊富になった物と思はれる。とにかく二十九歳から五十九歳迄、人間の盛の満三十年間を「源氏物語」の講義につかったのは、実に根強い根気である。宣長は年七十二歳で死んだのであるから、第三回の講義の終ってから十三年後である。
 ここに生活を一貫して持続せしめてゐる大きい力を感ずる。人の一生を文章とすれば、これはその文意である。身を以て描いてゐる大きい文章を読む心がする。 」

                             金原省吾『構想の研究』(昭和八年)より







[2009/02/16 23:18] 日記 | トラックバック(-) | CM(2)

凄いですね。頭が下がります。
こういった根気を持ちたいものです。

西森憲司さん、こんばんは
すごいのは、ずっと一貫して行ったという事実ではなくて、それを一貫させるだけの強い思いの方なのだろうと考えました。すごいですね。

[2009/02/17 22:02] ここ [ 編集 ]

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