適量の生活 (備忘録:家事家計会発表原稿) 

こんにちは。
研究室の向かいの山の中腹に、目立つほど黄色い銀杏の大木が見えています。
風の音がしています。

先日、友の会の家事家計講習会で発表しました。
質素な生活と丁寧な家事を頑張る友の会のイベントです。

当日の発表者は4人。
働きながらの子育てや、家計のお話、素敵なお姑さんとの半生についてなど、
職業班の発表は毎年、友の会としては、はみ出した内容がいっぱい。
今年も素晴らしいお話に胸を打たれました。
この三人の方の発表を聞いていただきたいところですが、
また備忘録として、私の発表内容をここに記します。

ここに記録として残すのは、発表の後半部分だけです。
それでも長いので、ご興味がおありの場合のみ、お楽しみ下さいませ。
(前半は、以前この場に書いた糖質制限のお話をいたしました。
後半の途中にもその部分があります。あしからずです。
一度書いておくと、ひょんな時に役に立つものですね。)


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 「適量の生活 糖質制限から考える」(後半)

 表題にしております「適量の生活」について。
 私は、この言葉について、友の会の「豊かさ」についての考え方をわかりやすく示す良い言葉だなあと思っています。たくさんあること、高価なものを持つことを豊かであるとするするのでなく、ちょうどよい=適量の暮らしが出来ることを豊かさとするというのです。「豊かさ」についての考え方の転換がここにあります。
適量こそが、豊かさなのですね。

 では、自分の暮らしは、ちょうどよい暮らしかな、と考えると、どうしてもそうは思えません。 
 子どもに手がかからなくなった今は、子育てで空いたはずの時間に仕事が入って、ゆとりがないのは変わりません。私の暮らしは、ちょっと忙しすぎという点で、子育て中も今も、決してちょうどよい暮らしとは言えないものだと思います。
 そのせいか、私は体調を崩しました。私は、ちょうど去年の今頃から夏休みいっぱいまで、お仕事のお休みをいただきました。
病休中は、とても幸せなのんびり時間を過ごしました。
いわば人生の夏休みです。

 適量。
 それは、物だけでなく、時間や労働量、あそびなどの質的なものも含め、いろんな面でちょうどよい暮らしこそが豊かで幸せなのだと思います。
おかげさまですっかり元気になって、この9月から復職いたしました。
お仕事に戻りましたらまた元の木阿弥、バタバタと時間に追われ、へとへとになる生活が復活しています。
かといって今すぐ仕事を辞めたいとも思わなくて。
 ちょうどよい暮らしは、いつになったら出来るのでしょう。
 適量って、どのくらいなのでしょう。

 身体を持ち、一日24時間という時間を生きている私たちには、どうしても必要な物がいろいろあります。それらを漫然とでなく、客観的に、科学的に?確かめてゆくことはやはり必要な仕事で、友の会の活動の一つにも、その検証への取り組みがあります。
「適量とはどのくらいか?」という問いへの模索です。
 ただし、この問いに物量として何グラム、何センチ、という具合に真面目に答えようとすると、その困難にすぐに気がつきます。
 例えばあるものが私にとって必要かどうか考える時、私は、自分の乏しい知識や経験、習慣などなどに照らして考えるしかありません。ですから私たちにとっての適量は、それぞれの一人一人の歴史や環境によって作られたそれぞれの「背景」と深くつながっています。
 私たちが生活するのにちょうどよい量を、物量的に、また誰にでも適応するような汎用的なものとして決定することは、そもそも原理的な難しさをはらんだ取り組みだと言えます。友の会の仕事としてその検証にあたってこられた方々は、その都度その問いに直面してこられたのではないかと想像しています。
 団体としての友の会にも友の会固有の背景=文化がありますから、「適量」の問いは、友の会とは何かという問いなのだとも思います。

では、私にとっての「適量」はどのくらいなのでしょうか。
ちょうどよい暮らしはどんなくらしなのでしょう。
皆さんがイメージなさっている適量の生活はどんなのですか。
 がつがつと外で働いている私ですが、サザエさん一家のような質素でも豊かな暮らし。絵本の14ひきシリーズのように、みんなで力を合わせればといった家族のイメージとか、そんな風な自分の家庭を想像するとうっとりいたします。
病気になって休んでいる間は、ちょっとそんな生活でした。
でもそれはつかの間の夢でした。
私は、やっぱり仕事も続けたいですし、それでも、質素で豊かな整った暮らしをおくりたいと思う欲張り者です。
そんな、私がイメージする理想の生活は、ちょうど良い夢の暮らしというより、かなり過剰な厳しい暮らしだという気がいたします。

 あれ?これは、糖質制限前の私と似ています。
自分にちょうどよい幸せな暮らしをしたいと言いながら、自分では精いっぱい適量生活に向けて努力しているつもりで、やっぱりちょうどよくない苦しい毎日を送っていた私。 
 お野菜をたくさんとかのささやかな努力にちょっと満足しながら、全体には食べ過ぎで、甘いものもたくさんいただいて、休息も取らずに疲れていた私の姿と同じです。
必要に駆られて始めた糖質制限の食事、つまり私にとっての身体にいい食事は、今まで身体にいいと思って頑張ってきたものと、かなり違う姿をしていました。
今の私は、サプリメントやプロテインの力を借り、白いご飯は全くいただかないといった、言わば罰当たりな食事をしています。

 ある日、広島そごうの地下1階に立ち止まって、売り場をしみじみ見渡しました。
明るくて、楽しくて、いつもいい匂いがしています。
美味しいおやつで、全体が色とりどりです。
「ユーハイム」、「とらや」、「ちから」のおうどんとおはぎ、「御座候」の大判焼き、「ケーニヒスクローネ」。
そして突然気がつきました。
このフロア全部、私が食べられないものばっかり!

不思議なことですが、それが哀しくもなんともありませんでした。
ただ、その状況を目にしているという感じです。
地下一階全部、見えていて、その場に居るけれど、かかわることがない。
ちょっと言葉の通じない外国に居るような感じとでも申しましょうか。

私は糖質制限をきっかけに、これまで私がいた食文化の外へ出てしまったのだと思います。今は、子どものころからあたりまえだと思ってきたのとは違う、別の暮らしを生きている、そんな感じがしています。

 今でも、お茶碗に白いご飯がないなんて、これが食事だと納得できない気がいたします。
 もしかすると、私にとっての適量の生活、ちょうどよい暮らしも、私が想像もできないような生活の形をしているのかもしれません。

私の母の世代が作ってきた豊かなよき暮らしを、私の娘の世代が同じように追うことは、難しい世の中が来ています。
 近年、政治や社会の仕組みが制度疲労を起こして、いろいろなところに転換の兆しが見えています。家庭のあり方もまた、転換期を迎えているのかもしれません。
現在は、明治維新のような状況のさなかにあるのではないかというお話も聞きました。
明治維新の当時も、ある日急に明治がやってきて、生活ががらりと変わったわけではないと思います。きっと、今までどおりの江戸時代的なものを守って生き続けた多くの武士たちと、その同じ生活圏に、新しい明治の世を生きた人々が、同時に存在していたに違いありません。
私たちの適量の生活も、制度の転換のような形で、どこか外部から突然やってくるものではないでしょう。

今の私たちの暮らしには、厳しい労働環境、子育て後の長い時間、老いの現実など、愛する人と、その子どもたちとの愛の巣としての家庭、といった家族の概念には含まれない現実が押し寄せています。 
私たちは、今まで固く染みついたよき暮らしのイメージの外に出なければならない時がきているのではないかと感じます。
 思えば、羽仁もと子さんは、明治の女性として、直面する変化の中で、新しいよき暮らしのあり方考え方を、新しく創り出そうとなさっていました。

人としての本質的な願いから目を背けず、一方で直面する現実に目を向け、根底から考え直そうとすることによって、ようやく、新しい適量の生活がみえてくるのではないか。
暮らしの現実から考える場所としての友の会、徹底的にクールに、生活の物量を見直してきた広島友の会の取り組みが、これから力をもつことになるのではと考えているところです。
 
 糖質制限をきっかけに考えたことを、とりとめもなくお話することになりました。
これからも、ゆっくりですが、考えてゆきたいと思っております。
ありがとうございました。

                           2017/11/26  於 広島友の家




[2017/11/30 16:08] 家事 | トラックバック(-) | CM(0)

毎日のお食事、どうしていらっしゃいますか? 

こんにちは。
4月になりましたね。

話題の本を読みましたので、ご紹介です。

土井善晴『一汁一菜でよいという提案』(グラフィック社 2016.10)

筆者は、和食の第一人者です。
そんな方に、料理は「一汁一菜でよい」なんて言われると、何だか私の毎日の料理の、申し上げにくいあれやらこれやらの免罪符をいただいたような気がして、それだけで少しホッといたします。

しかし、その上「おいしくなくてよい」とまでおっしゃっていると聞きますと、
我が家の料理責任者としては、
ホントにそんなのでいいんでしょうか、
とお訊ねしたくなります。

そうではないのです。
この本の「一汁一菜」は、お料理を、モノ=できあがった作品としてでなく、作り手、食べ手、状況などをひっくるめて捉える、家庭料理のあり方全体のこと。

この本の問いは、「家庭料理はどうあるべきか」につきます。
そしてその答えとしての。「一汁一菜」なのです。


「 どうも脳というのは、身体と反対の方向を向いていることがあるように思います。この頃は、「脳に騙されるな」、あまり脳を信じてはいけないと思っています。

・・・若い人が、「普通においしい」という言葉使いをするのを聞いたことがありますが、それは正しいと思います。普通のおいしさとは暮らしの安心につながる静かな味です。

・・・人間の「食べる」は、表層的なおいしさだけを求めているのではない。無意識の身体はそれをすでに知っており、穏やかな心地よさとしてゆっくりと脳へメッセージを伝えています。

・・・おいしい・おいしくないも、そのとき次第でよいのです。

・・・その変化を自分で感じていればよいのです。」

(p.18「自分の身体を信じる」より)



筆者の奥様は、仕事でできた料理を、帰宅した子どものために取り置いて、食べさせることを一切なさらなかった
のだそうです。そんな奥様への感謝とともに。

「仕事でできたご馳走と妻がその場で作ったお料理は、食べ物として同じでしょうか。

・・・それがご馳走であるとか簡単なものであるとか、味つけなんてことも問題ではありません。妻がその場で娘のために作る料理の音を、娘は制服を着替えるあいだに聞いたでしょう。匂いを嗅いだでしょう。母親が台所で料理をする気配を感じているのです。」

(p.40「台所が作る安心」より)


 この本は、母親が家庭で手作りの料理を食べさせるべきだとか、身体に良い自然素材をとか、そういった教条的なことを仰っておられるのでしたらうんざりですが、そうではありません。
よくある、そんなに頑張らなくて良い、というたぐいのものでもありません。

人が料理をし、それを食するという、日常として繰り返されること。
そこに深く目を凝らし、そこで人の中に何が起きているのかに思いをいたし、何が大切で、何がそうでないのかを考えようとした本だと思います。


「二〇一三年十二月、和食(日本人の伝統的な食文化)がユネスコの世界無形文化遺産に登録されました。その理由には、日本の豊かな自然を背景として、

一、素材の持ち味を尊重する(旬を楽しむ)

一、栄養バランスに優れた健康的な食生活(動物性油脂をあまり使わない)

一、暮らしの行事とともにある(節句のちらし寿司やおせち料理)

一、自然の移ろいを表現する(美しいプレゼンテーション)

があります。これはまさに、日本の国民の健康とくらしの情緒に関わる家庭料理のことだとわかります。にも関わらず、メディアは、名のある和食の料理人ばかりに、マイクを向けるのはなぜでしょう。どうして、日本の家庭料理を担ってきたおばあちゃんや母親のもとに、行かないのでしょうか。」

(p.104 「和食の感性 考えるよりも、感じること」より)



 もちろんですが、本書は随所に、具体的なお料理の提案や写真がちりばめられています。
後半は、日本の食の歴史や文化について、現在の食の変化、食の周辺、食の楽しみなどについて、いずれも身近な親しみやすいことを例に取り上げながらのお話。
そこにも写真が多数添えられています。
そして、その控えめな写真の中にあるのは、私たちの美しい日常なのでした。

JR九州 特急かもめ 車内にて
JR九州 特急かもめ 車内にて


[2017/04/02 15:50] 家事 | トラックバック(-) | CM(0)

贈りもの この先のある日へ 

こんにちは。
いいお天気の午後です。
空の端っこに、綿の切れ端のような、すうっと薄い雲が見えています。

この秋の初めに、お布団を打ち直しに出しました。
ベビー布団一式とジュニア布団一式。
作ってくださったお布団屋さん自慢の、上等な綿のお布団です。
その綿を合わせて、大人サイズのお布団を作っていただきました。

先日、そのお布団屋さんから、思いがけない贈りものがありました。
ベビー布団と、ジュニア布団の側の生地です。

あんまり傷んでいませんでしたから。
今度はこの布でお孫さんのお布団ができますよ。

ふふふ、そんな先のことなんて。

生地はきれいにアイロンをあてて、丈夫な茶色の紙で包んでありました。

時折、その紙包みをそっと開きます。

ミッフィーちゃんたちが正面を向いて並んでいる黄色い布。
ピンクの布には、買い物籠を持った、何やら忙しそうなウサギさんたち。

我が家に、小さい小さい赤ちゃんのいた日々。
いつ来るのか、本当に来るのか分からない、ずっと先のある日。

時間が、つながっているということ。


[2009/11/04 16:15] 家事 | TB(0) | CM(4)

思い出の虫干し 

こんにちは。
今日もまたいいお天気です。

思いついて、娘が赤ちゃんの時のものの整理を始めました。
ごくごく小さい頃のものは、だいぶん人様に差し上げたりいたしましたので、もう、手作りのものや記念のものが残っているくらいです。

退院の時の白いドレス。
白いくつしたと、帽子も。
ドレス、せっかく作ったのに、少々きつくて、その上退院の日は雪。
上にいろいろ着せたので、少しも見えませんでした。

冬の子でしたから、毛糸のものがたくさん。
おばあちゃまに編んでもらったベスト、フード付きのカーデガン、ジャンパースカート。
みんなみんな、小さくて、ふわふわです。

初めてのゆかたはキティーちゃんの模様でした。
手をつないで、お祭りや盆踊りにいきました。
水着は黄色で耳つきの帽子とお揃いです。
ヨーロッパのおみやげのちょっと生意気なコートとベスト。

大きな四角い風呂敷包みが出てきたので、何かなと思ったら、何とおしめでした。
おむつカバーもたくさん。
最近ではもう、こんなものを使う方も無いでしょう。

私たち新米の両親と、今よりちょっと若かった、おじいちゃまとおばあちゃまの、
心意気の箱詰めです。

今日一日、秋のやさしい陽に当てて、また元に戻そうと思います。




追伸:
少し大きくなってからのものが、まだまだあります。
もし着てくださる方があれば、とても嬉しく存じます。
どうぞご連絡下さいませ。
のんびりしているうちに、私が知っている子どもたちは、みんなすっかり大きくなってしまいました。



[2009/10/23 11:58] 家事 | トラックバック(-) | CM(4)

サン・ティー 

こんばんは
暦が秋になって、夜はすっかり涼しくなりました。

毎年夏になると、毎日のように冷たい紅茶を作ります。
作り方は母に習いました。

水にパックに入れたお茶の葉を入れて、お日さまの中に出しておくのです。
するとゆっくり水が温まって、紅茶の色が少しずつ出てきます。
それで、気に入った色になったらできあがりです。

熱湯で作った紅茶を冷やすとすぐに白く濁ってしまうけれど、こうして作った紅茶はいつまでも透明です。
こうやって作った紅茶のことを、母はサンティーと呼んでいます。
お日さまのお茶です。

陽射しがすっかり秋めいてきた今日も、私はサンティーを作りました。
真夏の暑い頃より、少し長く時間がかかります。

ガラス瓶の中の紅茶が、秋の陽射しの中で、いっそう透明に見えます。



[2009/08/23 22:49] 家事 | トラックバック(-) | CM(0)

陽射しの中で 

こんばんは
裏庭に卯の花が咲きました。
去年は花かごでしたけれど、今年は見よう見まねで、剣山を使って活けてみました。

今日はお天気がとてもよくて、時間もたっぷりありましたから、
思い立って、カーテンを洗いました。
それから、リビングの照明器具をきれいにしました。

光がたくさん差し込むように。
ここが明るい場所になりますように。

そういえば毎年、外の陽射しが明るくなると、思い出してカーテンを洗います。

考えてみたら不思議。

暗いときに、明るさを求めるのでなくて、
光がいっぱいになってから、もっと明るくって思ってる。



[2009/05/18 22:24] 家事 | トラックバック(-) | CM(0)

季節が変わるということ 

こんにちは
気持ちのいい風が吹いています。

冬の毛糸を洗いました。
厚手のセーターやカーディガンです。
乾いたら、きちんとたたんで、次の冬までしまっておきます。

少し前まで、もしかしたらまだ着るかも、なんて思っていました。
でも今は、もう絶対着ないって、きっぱり言いきれちゃう。
未練も何にもなし。

あたり一面、新緑に包まれて、明るい陽ざしがまぶしいほど。
まどの外に並んだ、お気に入りのセーターやカーディガンも、それほどの魅力もなく思われます。

待っていたらそのうちに、こんな季節が来るってこと、
やっぱり本当には分かってなかった。

季節って、変わるんだ。




[2009/05/01 13:59] 家事 | トラックバック(-) | CM(2)

ごはんの炊き方 

こんばんは
雨です。

お米を研ぎました。
真っ白のとぎ汁を、
ボールにとって、
今日は玄関の外の植え込みにやりました。

雨が降っていたけど。
そこは雨がかからないところですから。

それからまた、台所に戻って、
炊飯器のスイッチを入れました。

ごはんの炊き方。



[2009/02/22 19:25] 家事 | トラックバック(-) | CM(6)